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作品名:エルトゥールル号の海難
原作:清原 登志雄
校正:橘 はやと/橘 かおる
イラスト:姫嶋 さくら
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皆さま、おはようございます。今回は学習物シリーズ。
今回のお話は日本国とトルコの友情の原点となったある海難事故のお話です。
現在のトルコ共和国は北にブルガリア、南にシリア、イラクなどと接する780,576平方キロメートル
日本の2倍の面積を持つ大きな国です。首都はアンカラで2012年12月時点での
人口は推計7562万人の共和制を敷く国です。
今日のお話は明治23年9月16日の夜、和歌山県串本町、紀伊大島で起きた大きな海難事故、
エルトゥールル号の海難に焦点を当ててみました。

  明治23年6月、大日本帝国と国交のなかったトルコは、トルコ皇帝アプデュル・ハミット2世の命により、
トルコ皇帝特使派遣使節として来日しました。
オスマンパシャ海軍少尉以下650余名の将兵を乗せた軍艦エルトゥールル号は
6月に来日し大日本帝国と修交の使命を果たしました。

しかし軍艦エルトゥールル号は木造船で1861年イスタンブール造船所で建造。
来日した時にはこの船は、かなり老朽していました。日本へ来る途中、
何度も他国の港に立ち寄っては船の修理を行い1年ほどかけてようやく日本に到着したのです。

目的を果たした一行は、帰国する途中、暴風雨に遭います。
明治23年9月16日 午後9時ごろ和歌山県串本町、樫野碕で船が流され
岩礁に衝突し遭難するという事故が起きました。
これにより木造の軍艦は大破。樫野碕沖はゴツゴツした岩礁が海面から沢山出ている為、非常に危険でした。
しかも事故発生時が深夜であった為事態は最悪な状況でした。
当時、串本町 紀伊大島は離島であり通信機関も救助機関もありませんでした。
紀伊大島の人々は嵐の中、献身的な救護活動を行い、
士官ハイダール以下69名は一命を取り留めることができました。しかし、特使を含む580人が亡くなります。


この時、村民は手持ちの着物や布団をもちより応急処置と看護にあたり、
また、各戸に蓄えていた芋や飼っている鶏などの食料を提供しました。
しかし、69名という客を迎えたため、たちまち小さな離島の食料は底をつきました。
大島の人々はトルコ人が本国で賓客にもてなす劣らぬ歓待の意を表し、食料の一切を喜んで提供したと言われています。

  このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上されました。
明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣を決定します。
この救護は日本赤十字社の平時での最初の国際救護活動といわれています。
この大きな海難事故は日本じゅうに大きな衝撃を与えました。
日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられたのです。


  明治23年10月5日大日本帝国軍艦、比叡、金剛がトルコへの送還の船路をとり
明治24年1月2日イスタンブールに生存者は無事入港しました。
イスタンブールの全市民は日本国民が使節一行ならびに殉難者に示した歓迎と深甚なる同情に対し、
心からの感謝をもってこれを迎えました。日本とトルコの友情はここから始まったのです。
日本では、この海難事故の話しは平成18年度から教科書に掲載されました。

皆さまも一度、和歌山県 串本町 樫野碕に出かけてみてはいかがでしょうか?
白い灯台、南国の潮風、トルコと日本の友情となった記念館、灯台守りの官舎も改修され、きれいに整備されています。
灯台に行く途中、トルコアイスをいただきました。南国の海を眺めてみるのも良いのかも知れません。
日本とトルコの友情が更に発展する事を祈ります。



【取材先
串本町 紀伊大島 トルコ記念館
串本町 紀伊大島 樫野碕灯台旧官舎
串本町 紀伊大島 樫野碕灯台

【参考資料】
日本国 外務省ホームページ

▲▲▲▲  2013年11月完結  ▲▲▲▲