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作品名:ユダヤ人と杉原千畝
ライティング:清原 登志雄
校正:橘 はやと/橘 かおる
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みなさん、おはようございます。今日から始まる新シリーズ「偉人達の物語」
このシリーズは立派な人物をまとめて紹介するものです。



【第1部 アドルフ・ヒトラーの登場】

本日、ご紹介する人物は1939年から1940年東ヨーロッパの国(リトアニア)で
活躍した外交官、杉原千畝です。杉原千畝がリトアニアの外交官として活躍していた頃、
第2次世界大戦という
60カ国以上を巻き込んだ大きな戦争がヨーロッパでおきていました。
この戦争で多くの人々が亡くなり、国や住む家を失った人達が大勢いました。
特にユダヤ人は中枢軸国側のドイツから激しい迫害を受けていました。
杉原千畝はナチスドイツにより迫害されたユダヤ人に日本通過のビザ、日本へ来るための許可証を
6000人のユダヤ人に発給した
事で救い、(東洋のシンドラー)と言われた人です。
捕まったユダヤ人は強制収容所へ送られ、ひどい迫害を受けたと言われております。
彼のビザは紛れもなく命のビザだったと言えるでしょう。

ユダヤ人と杉原千畝

杉原千畝がリトアニアのカウナス日本領事館で活躍していた1940年、
ヨーロッパでは第2次世界大戦がおきていました。第2次世界大戦とは1939年から1945年まで
ドイツ・日本・イタリアを中心とする陣営とイギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中華民国などの
陣営との間で戦われた激しい戦争です。この戦争により6000万人以上の人々が
犠牲となったと言われております。戦争はイギリスやアメリカ等の連合国側の勝利で終わりましたが
この時、ドイツから多くのユダヤ人が迫害を受け犠牲となりました。

ユダヤ人がドイツの人々から迫害を受けた理由をとは何だったでしょうか。
第1次世界大戦後のドイツは、連合国側にから1320億マルクの賠償金支払いが課されて
重税で苦しんでいました。損害賠償金とは、ドイツが連合国側に戦争で与えた建物の費用と損害

の費用などで、損害がおきる前と同じ状態にするための費用の事です。

しかし、これはドイツの支払い能力を大きく上回っており賠償金の支払いはなかなかできません
賠償金が支払われない事を理由に1923年、イギリスの反対を押し切ってフランス・ベルギーが
屈指の工業地帯であり地下資源が豊富なルール地方を軍事力で占領しました。
これによりドイツの経済は致命的となり1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落するインフレとなりました。
インフレとはどんどん物価があがっていく現象で、ドイツはもうお札を印刷して賠償金を支払うことしか
出来なくなってしまったのです。お金の価値が、紙くず同然と化した事で多くのドイツ人は仕事を失い、
とうとう正気を失いはじめたのです。

そこに登場したのがアドルフ・ヒトラーという政治家でした。アドルフ・ヒトラーは

ドイツ人は優秀な民族だ。ユダヤ人を国から追い出し強いドイツを作るのだ

と国民に言いました。

ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々で中東の国イスラエルに住んでいましたが
1900年前ローマ帝国によって滅亡されられてしましまったのです。その後、
ヨーロッパ各地へユダヤ人は難民として散らばったのですが、
ヨーロッパではキリスト教を信じる人々が多かったのです。そのため、ユダヤ人はどこへ行ってもよそ者扱いでした。
守ってくれる国が無い…。自分たちの命を守る為にユダヤ人はお金を貯めました。
そのため、努力して銀行家や会社の社長になる人々が多かったのです。

ヒトラーはそこに目をつけたのです。

我々から仕事を盗んだユダヤ人は敵だ

といいユダヤ人を殺そうとしたのです。正気を失ったドイツ人達はヒトラーを首相にし、
ユダヤ人は強制収容所に送られ、ひどい生活を送ったり殺されたりしたのです。
これを大虐殺(ホロコースト)といいます。

リトアニアに住んでいた多くのユダヤ人は
『ドイツが攻めてきたら殺される』

と考えるようになりました。そのため国を捨てて外国へ行く方法を考えはじめたのです。
ところが1940年、リトアニアの周辺国はすでにドイツに負けてしまっていました。
ドイツ軍の手が迫る中、逃げ道を閉鎖されたユダヤ人が生き延びる方法はソ連という国を抜け、
日本を通り世界に逃れるしかなかったのです。


【第2部 杉原の苦悩】

1940年、リトアニアはソ連と合併しようとしていました。
合併とは2つ以上の国や組織がまとまって1つになる事です。
ソ連とリトアニアの併合に備え、領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して
入国ビザを発給する国がありません。この問題を解決したのは、カウナスの各国領事の中で
唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンディクという外交官でした。
彼はカリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島なら、簡単に入国できるということに目をつけ、
キュラソー行きのビザの発給を決断しました。キュラソー島は面積448
km2の岩だらけの小島で、
ユダヤ人の危機を救うために考えられた方法でした。(キュラソー・ビザ)を持ってユダヤ人が
日本領事館に押し掛けたのは、1940年7月18日午前6時でした。

この時、ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前を埋めつくしました。
これに驚いた杉原千畝は事態を理解しようと、ユダヤ人代表を選び領事館に入るように言いました。
そしてユダヤ人の代表ニシュリ氏、バルハフティック氏を含む5人の代表と2時間近く話しました。

ユダヤ人の代表者は

「我々はドイツから迫害を受け、ポーランドから逃げてきたユダヤ人で、日本領事館に行けばビザが
 もらえると聞いてきました。オランダ領キュラソーのビザもあります。
 日
本の通過ビザをだしていただきたいのです」

杉原千畝は

「みなさんの要求は日本通過の許可ということですね。みなさんの危機的な状態はよく
 わかりました。なんとか援助してあげたいのですが、これだけの枚数のビザとなると
 外務省の許可が必要ですから、3、4日待ってください」

その日の午後、外務大臣にビザを大量発行して良いかを仰ぐ電報をうちました。

7月22日(月)
外務省からの答えは

最終国の入国許可を持たない者にはビザは発行してはならない

でした。杉原千畝は、悩んだすえ再度外務省に電報をうち判断を仰ぎました。

7月24日(水)
外務省より答えが返ってきました。

「ビザを出してはならない」

何故、日本はビザをだそうとしなかったのでしょうか?実はこの頃、
日本はドイツ、イタリアと同盟を結ぼうとしていました。日本はドイツが目の敵にしている
ユダヤ人をかくまう事により同盟が結べないと恐れたためではないか
と言われています。
杉原千畝は一晩中ビザを出すか出さないか悩みました。

7月25日(木)
ビザを出す事を決めます。受入国は(キュラソー)としました。
ユダヤ人4人に通過ビザを出します。

7月26日(金)
18人に通過ビザ。

7月27日(土)
42人に通過ビザ。

7月29日(月)
杉原千畝

「ビザを発行する」

とユダヤ人難民に宣言しました。ビザ121人。

7月30日(火)
ビザ260人。

7月31日(水)
ビザ146人。

8月2日(金)
外務省より領事館から撤退するよう命令が来ます。

8月3日(土)
リトアニア、ソ連に併合され、14番目の共和国となりました。
これによりリトアニアは消滅しました。この日以降、日本国及びソ連政府からも
再三の領事館退去命令がありましたが、これを無視してビザを書き続けます。


【第3部 杉原の功績】

8月26日(月)
日本領事館閉鎖。これ以降も異動先のメトロポールホテルでビザの代わりの渡航証明書を書きます。

9月5日(木)
杉原一家ベルリンへ向かうため、カウナス駅へ。ホームでも日本の入国許可証を求める
ユダヤ人に渡航証明書を発給し続ける。その家族や公式記録からは漏れている人を合わせると、
杉原千畝が助けたユダヤ人は6000人とも8000人とも言われています。

1945年
第2次世界大戦 終結。

1947年
ようやく帰国、しかし

ビザを発給してはならない

との命令を無視して大量にビザを書いた為、杉原は外務省から解雇を通告されます。

1976年
突然イスラエル大使館から電話がかかってきました。イスラエルの大使館にいたのは、
カウナス事件で助けた1人のユダヤ人(ニシュリ)でした。

そして1985年、イスラエルで(諸国民の中の正義の人賞を受賞)しました。

1998年にはイスラエルで杉原千畝の切手が作られました。2000年には日本でも切手になりました。

2000年
河野(こうの)外務大臣は杉原千畝に対し無礼があった事をわびました。
ついに人々は杉原千畝の決断を高く評価するようになったのです。

リトアニアでユダヤ人にビザを発給し続けた事を杉原千畝は話しませんでしたが、
いま
ではそのことが世界中に知られています。「人を愛する、人を残す」という事は
自らを世に残すという事なのかも知れません。杉原千畝は人道主義の博愛の精神としてこれからも
愛され続ける事でしょう。皆さん、
今の日本は「人を残せる」国になっているだろうでしょうか?
皆さんはどう思いますか?



【参考資料】
・小学館 学習まんが辞典
・ウィキペディア
・杉原千畝誕生100周年記念事業サイト

▲▲▲▲ 2013年12月3日 完結 ▲▲▲▲